「乳腺外科医事件」裁判の争点 【後編】

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 手術直後の女性患者への準強制わいせつ罪を問われた執刀医が、逮捕・勾留・起訴された事件。一審では無罪判決が言い渡されたが、検察は控訴し、争いは現在も続いている。この事件に関しては、ネットを中心として被害者とされる女性に対するバッシングと、医療者に対するバッシングがそれぞれ見られる。しかし、本件では「麻酔(注:本件ではプロポフォールやセボフルラン、笑気等が使用されていた)の影響で幻覚を体験した可能性がある」 として無罪判決が下されており、事件の本質からすると、女性も医師もある意味で被害者といえる。

 担当弁護人の1人である水沼 直樹氏に、実際に法廷で論じられた2つの争点について、前・後編で解説いただく本企画。前編に引き続き、今回は術後せん妄の有無についての裁判の経過と、このような事案を防ぐために考えられる医療安全対策を取り上げる。

後編:術後せん妄か否かをめぐり、何が争点となったのか

1.麻酔薬による術後せん妄の可能性

 本件の良性腫瘍摘出術では、麻酔薬としてプロポフォール200mgのほか、笑気ガスとセボフルランを継続的に投与し、鎮痛薬としてペンタゾシン5mg、坐薬等を投与していました(患者:30代前半、体重約50kg)。

 患者には、せん妄の準備因子の1つである脳の器質的障害は認められませんでしたが、誘発因子の1つとされる疼痛については、患者が術後に痛みを訴えています。また、直接因子とされる手術侵襲や上記の麻酔薬、オピオイド(ペンタゾシン)の使用も本件ではあります。

 弁護側証人は、乳房手術は全身麻酔後の覚醒時せん妄リスクが高い(オッズ比:5.19)と報告1)されていることを証言し、また、検察側証人がせん妄の可能性が低い理由の1つとして若年者であることを挙げたことに対し、せん妄の発症には必ずしも年齢による有意差があるわけではないと証言しました。実際に、小児麻酔においても術後せん妄が問題となり2)、学会などでも取り上げられていることも言及しています。

 麻酔薬と性的幻覚の症例報告は世界中にあり3)、プロポフォールについていえば、同薬により生々しい性的幻覚を見たという症例が世界中で報告されています4-7)

2.医師のDNAが患者の乳房に付着する可能性

 執刀医は、手術前に病室で患者の両胸を触診し、術前マーキングを実施していました。また、手術室内でも再度触診し、上級医と術式確認をしながら切開部を狭めるため再マーキング(デザイニング)を行っています。これらの際、医師は通常どおり素手で触診しました。

3.裁判所の判断

 患者が痛みを訴えていたことや術後にバイタルチェックを受けたこと等の記憶が無いこと、専門家の証言等を総合した結果、患者が「せん妄状態に陥っていた可能性は十分にあり、また、せん妄に伴って性的幻覚を体験していた可能性が相応にある」と判断しました。

 また、現場に臨場した警察官が、左胸以外の他の部分からも付着物を採取していれば、何らかの事実が判明でき真相解明につながった可能性がある、という旨が述べられました。

 さらに、検察官は医師が術前に撮影した写真(顔と胸が写っている)を根拠に、医師に性的興味があったと指摘しましたが、これらの写真は、すべてデザイニングされた写真でした。裁判所は、医師が医学的な目的以外で撮影したとはいえないと判断しました。詳細については、拙稿となりますが『医療判例解説 Vol.079』8)にも経緯をまとめています。

4.医療安全対策

 この事件から得られた対策は、3つ考えられるでのはないでしょうか。1つは、患者の回診(とくに女性患者の回診)には、医療者1人で訪室しないことです。あらぬ疑いをかけられたり、また実際に犯行の機会を作ったりせずに済むからです。家族の立ち会いを求めるのも一案です。なお、男性看護師の場合はとくに複雑な問題をはらみますが、せめて術後間もない時期だけでも、男性が1人で訪室しないような工夫をすべきでしょう。

 2つ目は、せん妄の診断基準としてはDSMやICD等がありますが、簡易版のスクリーニングツールも複数あります。CAMは、(1)急激な発症・症状の変動、(2)注意の障害、(3)解体した思考、(4)意識の障害の4項目から構成されるツールで、(1)(2)があり、かつ(3)または(4)があればせん妄と診断するという簡便なツールとなっています。これらを活用し、患者のせん妄を早期に医療機関が把握し、放置しないことが重要です。

 最後に、せん妄の可能性を患者や家族に対して、あらかじめ説明しておくことも重要です。英国立医療技術評価機構(NICE)のガイドラインや、厚生労働省制作の、せん妄に関する啓発動画9)を活用することも一案かと思います

(ケアネット)


【参考】
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1)  Lepousé C et al. Br J Anaesth. 2006;96:747-53.
2)  Morgan E et al. Plast Reconstr Surg. 1990;86:475-8; discussion 479-480.
3)  Schneemilch C et al. Anaesthesist. 2012 ;61:234-41.
4) Balasubramaniam B et al. Anaesthesia. 2003;58:549-53.
5) Yang Z et al. J Anesth. 2016;30:486-8.
6) Martínez Villar ML et al. Rev Esp Anestesiol Reanim. 2000;47:90-2.
7) Marchaisseau V et al. Therapie. 2008;63:141-4.
8) 医療判例解説Vol.079 . 医事法令社;2019.
9) 厚生労働省委託緩和ケア普及啓発事業企画制作/日本サイコオンコロジー学会企画制作協力.『あれ?いつもと様子が違う=せん妄とは?』


講師紹介

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水沼 直樹 ( みずぬま なおき ) 氏
文京あさなぎ法律事務所 弁護士

[略歴]

東北大学法学部・日本大学大学院法務研究科卒業。
都内で法律事務所勤務の後、亀田総合病院の内部専属弁護士を5年超にわたり務め、現在に至る。
東邦大学医学部非常勤講師、日本がん・生殖医療学会(兼理事)、日本睡眠歯科学会(兼倫理委員)、日本法医学会・日本DNA多型学会・日本医事法学会・日本賠償科学会・日本子ども虐待防止学会、日本麻酔科学会医事法制研究会、オートプシー・イメージング学会(兼アドバイザー)、日本医療機関内弁護士協会(代表)の各会員 ほか。医療系学会や医療機関からの医療安全講演も実施している。


前編はこちら

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「乳腺外科医事件」裁判の争点 【前編】

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 手術直後の女性患者への準強制わいせつ罪を問われた執刀医が、逮捕・勾留・起訴された事件。一審では無罪判決が言い渡されたが、検察は控訴し、争いは現在も続いている。この事件に関しては、ネットを中心として被害者とされる女性に対するバッシングと、医療者に対するバッシングがそれぞれ見られる。しかし、本件では「麻酔(注:本件ではプロポフォールやセボフルラン、笑気等が使用されていた)の影響で幻覚を体験した可能性がある」 として無罪判決が下されており、事件の本質からすると、女性も医師もある意味で被害者といえる。

 何が本件の争点となり、このような不幸な事案を防ぐために何ができるのか。担当弁護人の1人である水沼 直樹氏に、実際に法廷で論じられた2つの争点について、前・後編で解説していただく。

前編:科捜研による鑑定に問題点!?

1.事案の概要

 2016年某日、右乳房の良性腫瘍摘出術を受けた患者が、術後30分以内に2度回診した執刀医から、(1)1度目は左胸(健側部)の乳頭付近を舐められた、(2)2度目には患者の左胸を見ながら医師が自慰行為をしていた、との被害を訴えました。同日中に臨場した警察官が、患者の左乳頭部付近を微物採取。鑑定の結果、医師のDNA型と同型のDNAが検出され(DNA濃度:1.612ng/µL)、アミラーゼの陽性反応があったとされました。

2.証拠関係

 検察側の主な証拠は、執刀医が患者を舐めていたという患者の目撃証言と、患者の左乳頭部付近から採取された医師のDNAおよびアミラーゼ陽性という鑑定書でした。

3.争点

 争点は、2つあります。1つは、患者の被害証言(目撃証言)の信用性です。すなわち、患者の被害体験が麻酔薬等によって発症したせん妄による幻覚であるか否か。もう1つは本件鑑定書の信用性、すなわち、科学捜査研究所の鑑定に科学的許容性があるかです。なお、これに付随して、医師のDNAおよびアミラーゼが、上記犯行以外の機会に、患者の左乳頭部等に付着する可能性があるか、が争われました。

4.鑑定の問題点

 本件鑑定には、いくつか問題点がありました。まず、アミラーゼ検査の検査方法の詳細が不明であり、アミラーゼ陽性を示す結果(アガロースゲルの呈色反応結果)の写真がありませんでした。また、結果の確認は検査担当者だけが目視して、「+」とワークシートに記載していました。しかもワークシートは、都度記載するようにと通達に定められているものの、後からまとめて記載した疑いがありました。さらに、ワークシートは「鉛筆」で手書きされており、少なくとも、消しゴムで消して鉛筆で上書きした痕跡(日付や実験日時、ロット番号等を含む記載)が7箇所、消しゴムで消した痕跡が2箇所ありました。

 他方で、DNAの定量検査にも問題がありました。定量検査は、濃度が判明している既知試料(標準試料)と対象となる鑑定試料を同時に測定し、既知試料との比較において定量する検査方法ですが、科学捜査研究所の定量検査は、鑑定試料だけを測定していました。その結果、得られた定量値の正確性が問題となりました。

 さらにもう1つ、陽性反応を呈したアミラーゼ検査のゲル平板やDNA鑑定に用いた抽出試料、定量結果を示す増幅曲線や検量線図等が、2016年のうちに廃棄されており、検証が不可能となっていました。

5.鑑定の信用性に関する主張と裁判所の判断

 裁判所は、ワークシートが鉛筆書きされ、しかも記載が消しゴムで消されていたこと等は、鑑定者の職業意識の低さに由来し、また、検査結果のデータ資料が廃棄されたこと(鑑定者が破棄を阻止しようとしなかったこと)等は、鑑定者の誠実性を疑わせる事情であるとしました。また、標準試料との比較をしないで鑑定試料だけ定量検査した場合に、なぜ検査結果が信用できるのか判然とせず、検査差の信用性には一定の疑義がある等としました。

 後編では、せん妄の可能性に対してどのような判断が下されたか、本件のような事例を防ぐための対策について解説します。

( ケアネット )


講師紹介

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水沼 直樹 ( みずぬま なおき ) 氏
文京あさなぎ法律事務所 弁護士

[略歴]

東北大学法学部・日本大学大学院法務研究科卒業。
都内で法律事務所勤務の後、亀田総合病院の内部専属弁護士を5年超にわたり務め、現在に至る。
東邦大学医学部非常勤講師、日本がん・生殖医療学会(兼理事)、日本睡眠歯科学会(兼倫理委員)、日本法医学会・日本DNA多型学会・日本医事法学会・日本賠償科学会・日本子ども虐待防止学会、日本麻酔科学会医事法制研究会、オートプシー・イメージング学会(兼アドバイザー)、日本医療機関内弁護士協会(代表)の各会員ほか。医療系学会や医療機関からの医療安全講演についても実施している。


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