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手術直後の女性患者への準強制わいせつ罪に問われた執刀医が、逮捕・勾留・起訴された事件。一審では無罪判決となったが、控訴審では懲役2年の実刑判決が東京高裁より言い渡されていた。執刀医側の上告を受けて出された今回の最高裁判決は「東京高裁への差戻し」。弁護人の1人である水沼 直樹氏に、実際に法廷で論じられた争点と今後について解説いただく。
1.事件概要
(1)概要
本件は、2016年5月、右胸部の良性腫瘍(再発)摘出術を受けた患者Aが、術後約30分間に2度回診に訪れた執刀医Xから、健側の右胸部を舐められたと訴えたことから始まった事件です。科学捜査研究所は、Aの右胸からXのDNA型と一致するDNA(定量値1.612ng/μL)が検出され、またアミラーゼ検査が陽性であったと鑑定しています。
これに対し、Xは、Aの被害申告は、Aが術後せん妄(覚醒時せん妄)により幻覚を体験したに過ぎない、と逮捕当初から一貫して主張しています。当時の患者がせん妄状態にあり幻覚体験をしたか否か、検出されたDNA定量検査の結果を信用できるかが争われました。
(2)裁判の経緯
東京地裁では、当時の患者がせん妄により幻覚体験をした可能性があることを主な根拠に、事件そのものがなかったと推認して無罪判決を言い渡しました(詳細は「判決の争点」前編・後編を参照)。
これに対して東京高裁は、DSM-5等により診断した弁護側証人の証言の信用性を否定し、診断基準を使用せずせん妄による幻覚の可能性を否定した検察側証人の証言の信用性を肯定して、懲役2年の実刑判決を言い渡しました(詳細は「控訴審、逆転有罪判決の裏側」前編・後編を参照)。なお、東京高裁はDNA定量値については一切証拠調べをしませんでした(詳細は脚注1))。
2.上告での活動
弁護人は、上告するとともに、10名を超える専門家(大学教授を中心としたDNAの専門家およびせん妄の専門家)の意見書を提出しました。その要旨は、当時のAがせん妄状態にあり幻覚体験していた可能性が高いこと、DNA定量検査は検査原理に反し検査結果に信用性がないこと、鉛筆書きのワークシートが消しゴムで消されたり加筆されたりしており、科学鑑定とは言い難いこと、DNA抽出液が廃棄されているなど再現性がない等の意見が寄せられました(詳細は「判決の争点」前編を参照)。
3.最高裁判決内容
最高裁は、東京高裁が信用できるとした検察側証人の「見解が医学的に一般的なものではないことが相当程度うかがわれる」として、その証言の信用性を否定しました。他方で、DNAが多量に付着しているとすると、A証言の信用性が肯定できると見る余地もあるため、本件DNA定量検査が検査原理に反して実施されていたことや、標準資料の増幅曲線や検量線が作成されていないことが検査結果にどのような影響を与えるのか、いまだ不明なところがあるため、これを審理する必要があるとして、原判決を破棄し、東京高裁に差戻しました。
4.最高裁判決の評価
本判決に対しては、さまざまな評価があります(脚注1-2))。しかし少なくとも、一審で検査プロトコルに反したリアルタイムPCRの定量検査の結果に科学的信頼性のないことを専門家が証言しており、新たな証拠調べをする必要性が乏しいと思われます。また、アミラーゼ検査が陽性であったことを示す写真もゲル平板も存在しませんので、アミラーゼ検査が陽性であった証拠は、鉛筆書きされたワークシートの「+」との記載と、鉛筆書きして消しゴムで消したり書き直したりした検査担当者の法廷証言しかありません。
このような事実関係に鑑みれば、本件については、最高裁は、新たに東京高裁で審理を求めるまでもなくすでに提出されている証拠を基に、破棄自判して無罪とすべきであったと思います(その意味で本判決は不当判決だと考えています)。
なお、検察官は、控訴審の段階で、検査ノートを鉛筆書きして良いとの書籍等を証拠請求していますが、これらが明らかに科学的常識に反していることはいうまでもありません。
5.今後の動向
今後は、最高裁が指示した、DNA定量検査の結果である1.612ng/μLの正確性、その意味合い等について、東京高裁で審理されることとなります。そして、その結果を前提に、せん妄状態にあり幻覚体験をしたことが疑われるAの証言がどこまで事実として認定できるのか、すなわち被害体験が事実であったといえるのかどうかを、新たな裁判官で構成された東京高裁が判断することになります。
◆脚注
1)令和4(2022)年2月19日付東京新聞26面では、元東京高裁部総括判事の門野 博弁護士が『「まだ、科学鑑定で有罪にできる道がある」と検察側に助け舟を出したような印象だ。今回の事件ではDNA型鑑定に使われた試料が廃棄され再鑑定ができない上、実験記録が鉛筆で書かれるなど、捜査の過程に不備がある。科学的証拠の有罪の根拠とするには理論に寸分の緩みもあってはならず、最高裁がこの問題点に言及しなかったのは残念だ。』と述べたと報道されている
2)江川 紹子氏著『“手術後わいせつ事件”の最高裁判断に江川紹子が疑義…「疑わしきは検察の利益」でよいのか』では「最高裁は、肝心の点で判断を避け、結論を先送りして、高裁に委ねた。最高裁が役割を放棄した以上、高裁は司法の責任において、司法における「科学的な証拠」とは何か、という問題に正面から向き合ってほしい。」と述べている
講師紹介

水沼 直樹 ( みずぬま なおき ) 氏
東京神楽坂法律事務所 弁護士、東邦大学医学部・埼玉医科大学医学部国際医療センター・鳥取大学医学部 非常勤講
[略歴] 東北大学法学部・日本大学大学院法務研究科卒業。
都内で法律事務所勤務ののち、亀田総合病院の内部専属弁護士として5年超にわたり勤務したのち,本件弁護を受任したため同院を退職し,現在に至る。
日本がん・生殖医療学会(兼理事)、日本睡眠歯科学会(兼倫理委員)、日本法医学会・日本DNA多型学会・日本医事法学会・日本賠償科学会・日本子ども虐待防止学会、日本麻酔医事法制研究会、日本医療機関内弁護士協会(代表)の各会員ほか。
バックナンバー
5 「乳腺外科医事件」最高裁判決を受けて~担当弁護人の視点から
4 「乳腺外科医事件」控訴審、逆転有罪判決の裏側~担当弁護人による「判決の争点」解説~【後編】







